【蕪村菴俳諧帖32】寂しくてこそ秋
◆共通感覚を活かす
秋は人恋しい季節。
どなたが言い出したかわかりませんが、
何の疑問も持たずにそうだよなぁとうなずく人は
少なくないことでしょう。
これは共通感覚ともいうべきもので、
多くの人が共感するであろう秋ならではの情感です。
○さびしさのうれしくもあり 秋の暮
蕪村の句です。
秋の夕暮れは寂しいものだ。
しばらくその寂しさを味わっていたら、
いかにも秋の夕暮れらしいなぁと思われてきて、
なにやらうれしくなってしまったよ。
蕪村は「秋の夕暮れ=寂しい」という
典型的な気分になってしまった自分を面白がっています。
◆奥ゆかしい女郎花
ものごとに本来備わっている性質やあるべき姿を 和歌や連歌、俳諧では本意(ほい)と呼びます。本意をとらえそこねた作品はNGです。
本意はものごとの観察から感得できるものもあれば、 伝統を学んで身につけなければならないものもあります。
○家にあらで 鶯きかぬひと日哉
留守にしていたので今日一日はうぐいすを聞かなかったと。
うぐいすは家で待つもの、という本意を活かしているのですが、
こういう決まりごとは、勉強しないとわかりません。
鬼貫はその著書『独言(ひとりごと)』の中で、
四季それぞれの風物について細やかな考察を行っています。
難しくいうと風物が人の心に呼び覚ますイメージの考察。
女郎花(おみなえし)についての一節を見てみましょう。
女郎花はあさはかにながむる時はさのみもあらじ
よりそひてしばし心をうつしみれば立のきがたし
たとへばすげなき女の情ふかきがごとし
又雨の後は物やおもふととはれ顔にうつぶき
あるは風に狂ひてくねりなんどしたるけしきは恨るに似たり
さほど目立つ花ではない。しかし愛敬はないが情け深い女のように、
寄り添って感情移入すると離れられないほど魅力的だ。
雨にうつむく奥ゆかしさの一方で、
風が吹けば恨みに身をくねらせるかのよう。
鬼貫だけがそう感じていたわけではありません。
女郎花の本意はこのようなものと広く認識されていたのです。
ここで蕪村の女郎花の句を読んでみましょう。
○猪の露折かけて をみなへし
猪(いのしし)が折って寝床にした秋の草、
それは露に濡れた女郎花だったというのです。
色っぽい連想を誘いますが、蕪村はそれを計算に入れています。
「秋の夕暮れ=寂しい」ほど単純ではありません。
女郎花が持つ、激しさを内に秘めた女性のイメージ。
それを踏まえた上で、蕪村は言外に夜や寝床を示して
読み手の想像力を掻きたてようとしているのです。