【蕪村菴俳諧帖36】芝居の楽しみ

◆恋もそぞろな芝居好き

芝居好きだった蕪村、
顔見世興行のある日は朝から落ち着かなかったらしく

○顔見世や 夜着を離るゝいもがもと

いも(妹=恋人)と一緒のふとんからあっさり抜け出したようです。

顔見世は京都、大阪、江戸の三都で毎年冬に行われた歌舞伎の興行。
一座の新しい顔ぶれを披露するもので、早朝から上演されたため 寝坊などしている場合ではなかったのです。

○かほ見せや 既にうき世の飯時分

時の経つのも忘れ、芝居に夢中になっていた蕪村、 ふと気がつくと、浮世はすでに昼飯時になっているではないかと。
別世界に浸っていた気分がよくあらわれた一句です。

◆夢の顔見世

江戸時代、歌舞伎役者と劇場は年間契約であり、 契約期間は11月から向こう一ヵ年でした。
11月から一年が始まるため、顔見世は一座の役者総出演の、 年に一度の大掛かりな興行になっていたのです。

開演は早朝6時。
太夫元(たゆうもと=興行主)の翁渡しの式で 三番叟(さんばそう)が舞われて興行がスタート、 裃(かみしも)長袴の座付き役者がずらりと並んで口上を述べました。
京都では延宝年間(1673-1681年)まで 八乙女(やおとめ)の舞が演じられていたといいます。
これは出雲阿国(いずものおくに)が冠を着けて舞った 天冠の舞を継承したもの。
この舞が演じられなくなったのは歌舞伎の変化を反映しています。

初期の歌舞伎は踊りを見せるものだったのですが、 次第に演劇の要素が強くなり、元禄時代(1688-1704年)には 現在のような演劇主体のものになっていたのです。
蕪村の時代はいわゆる天明歌舞伎が形成される頃にあたるので、 おおらかで洗練された、華麗な舞台を見ていたのかも。

蕪村と同時代の俳人太祇(たいぎ)は 大阪を訪れた際にこのように詠んでいます。

○顔みせの 難波のよるは夢なれや 太祇



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