【蕪村菴俳諧帖45】三日見ぬ間の桜

◆大火百韻

江戸時代の代表的文人大田南畝(おおたなんぼ)が 大島蓼太(おおしまりょうた:1718-1787)について このように書き残しています。

明和9年2月29日、江戸に大火が発生。
通塩町にいた蓼太という俳諧の宗匠、 火が盛んになるのを見て文台に草稿を載せ、やかんに白湯を入れて 深川六間堀の要津寺(ようしんじ)へ向かいました。

蓼太は境内の庵に文台を置いて発句を作りながら 火を逃れてくる人々を受け入れ、一夜で百韻を完成させました。 (大田南畝「奴凧」)

明和の大火(1772年)は死者数約15000人、行方不明4000人に達する、 江戸三大火に数えられる大災害でした。
百韻は一巻が百句からなる俳諧作品のこと。

町は阿鼻叫喚の巷と化していたのではと思いますが、 寝ずに被災者の世話をしながらも
蓼太は平常心だったというのでしょうか。


◆ことわざになった発句

『続俳家奇人談』によると明和8年、 蓼太は旧芭蕉庵に近い要津禅寺に小堂を作って芭蕉の木像を安置し、 草庵を結んで芭蕉庵と名づけました。
大火の際に避難したのはこの庵でしょう。

また蓼太は境内におくつき(=墓)を築いて芭蕉の像を埋め、 それを俤塚(おもかげづか)と称していました。 天明7年、70歳で没した蓼太はその俤塚の脇に葬られているそうです。

○世の中は 三日見ぬ間に桜かな

三日間見ずにいたら、桜はすっかり満開だったのか、 それとも散ってしまっていたのか。
この句は世の移り変わりの早さを桜に例えたものと受け止められ、 「三日見ぬ間の桜」ということわざが生まれています。

○鹿もよく寐て 朧なり奈良の月

古都の春。朧月夜(おぼろづきよ)の静けさは 鹿もよく寝ているからだろうと。
奈良の風物を入れ、ユーモアもあり、 十七字を無駄なく活かした叙景の句。

○追はれては月にかくるゝ ほたるかな

逃げたほたるが隠れたのは葉陰でも水の上でもなく、 まぶしいほどの月であったよ。
光るものが光るものに重なって見えなくなったのですが、 それはほたるの知恵だったのでしょうか。

○稲懸けて里静かなり 後の月

後の月は九月十三夜。
稲刈りを終えて静かな夜を迎えた農村風景。

○ともし火を見れば風あり よるの雪

物音もしない静かな夜。
灯火がかすかに揺れるのに気づいて外を窺うと、 雪が降っていたのです。
読み手にさまざまな咸興を呼び覚ます、 蓼太の代表作とされる一句です。



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