【蕪村菴俳諧帖56】子規の蕪村キャンペーン
◆心にもない芭蕉批判
芭蕉の陰で埋もれていた蕪村を再発見したのは正岡子規。
子規は著書『俳人蕪村』で蕪村の俳諧を高く評価し、
弟子たち、友人たちとともに
蕪村の魅力を多くの人々に伝えつづけました。
蕪村に対する評価が低いのは不当である、 というのが子規の主張でしたが、 熱心に蕪村を紹介したのにはもう一つ、理由があります。
マンネリ化していた明治の俳壇は芭蕉を神のごとくあがめていました。
芭蕉二百年忌には石碑を建てるの廟を作るのと大騒ぎするほど。
子規は芭蕉本人がそれを迷惑がっているという
おふざけの記事を書いて新聞に投稿しています。
(『芭蕉翁の一驚』明治二十六年 日本新聞)
既成俳壇に批判的だった子規一門は
芭蕉に代わる象徴的な存在を求めていたと考えられます。
『俳人蕪村』は蕪村の句を芭蕉の句と比較して
蕪村のほうが優れているとする論法が目立ちますが、
これも子規の作戦でした。
本当は子規も芭蕉が好きだったのですから。
(『行脚俳人芭蕉』等)
とはいえ、写生と客観を重視する子規たちにとって
蕪村の作風は手本にふさわしいものだったといえます。
「雄壮」「妖艶」「精細」「積極的」「客観的」などの
さまざまな言葉で蕪村をほめたたえているのは、
蕪村作品に俳句の理想を見出していたからでしょう。
◆蕪村を神にしなかった子規
子規たちの蕪村キャンペーンは『蕪村句集講義』と題する
労作によって集大成されました。
これは明治31年から5年間、子規と門下の数人が集まって
『蕪村句集』の輪講(りんこう)を行った記録。
輪講というのは一つの本を交代で講義することをいいます。
本書には講義する弟子に他の弟子が質問をしたり、
子規が意見を述べたりするようすが記録されていて、
その場の雰囲気がよくわかります。
ひとつ例を見てみましょう。
○源八をわたりて 梅のあるじ哉
この句について、まず黄塔(こうとう)が解釈を示します。
大阪に源八(げんぱち)という名の渡し場があるが、
そこの川の向こうに梅林があったと思われる。
「梅のあるじ」は梅林の主人のことだろう。
川を渡るのは主人のようでもあり、自分のようでもあると。
それに対し鳴雪(めいせつ)は、渡るのは自分だろうと言い、 川を渡ってみたら梅林の風景を独占した気分になり、 自分が梅林の主人になったように思えたのだと意見を述べます。
しかし子規は、 源八を渡ったところに梅があるというだけの意味であり、 だれが渡ったかは問題ではないと反論、 結局意見が合わないままだったと書かれています。
誰の解釈が妥当かといえば、鳴雪でしょう。
梅を見た喜びがなければわざわざ「あるじ」と言わないのでは。
書記を務めた人物も鳴雪に賛成したいと記しています。
この場合は意見が割れていますが、
全員一致で傑作だとほめていることも少なからず。
その一方で駄作だ、つまらんと一蹴していることもあり、
冷静な評価をしていたことがうかがえます。
蕪村を無批判にあがめていないところは かれらの見識の高さのあらわれでしょう。